※この法話は令和8年10月15日に行われた「加茂法話会」での原稿を加筆修正したものです。
皆さん、こんにちは。
私たちが生きる今の世の中は、昔に比べると本当に便利になりました。しかしその一方で、どこか寂しさや、息苦しさを感じることはありませんでしょうか。
昔は、ご近所同士で顔を合わせれば「お茶でも飲んでいきなさい」「最近どうですか」と、縁側や道端で話をしている光景を子供ながらに覚えています。困ったときはお互い様と、自然と助け合う温かい繋がりがありました。しかし今はどうでしょう。ご近所付き合いもすっかり薄くなり、一人で家の中にいる時間が長くなったという方も多いのではないでしょうか。
たまに外へ出かけても、世の中のスピードがどんどん早くなっています。買い物に来て、お店のレジも機械に支払いをしたり、セルフレジがあったりします。少しでももたつくと、後ろの人から急かされるような気がして、肩身の狭い思いをすることはありませんか。効率や便利さばかりが優先され、ゆっくり歩くことや、ちょっとした失敗が許されないような、どこか余裕のない、ピリピリとした空気を感じます。
そんな冷たい社会の中で、知らず知らずのうちに、私たちの心にもトゲが立ち、『世の中の早い流れに取り残されてしまった』という寂しさから心に余裕をなくし、ふと顔がこわばってしまったり、つい愚痴や不満をこぼしてしまってはいないでしょうか。
今回は、そんな今の時代にこそ私たちの心をふっと温めてくれる「和顔(わげん)愛語(あいご)」という教えについて、一緒に考えてみたいと思います。
「和顔愛語」という言葉は、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』というお経の中に説かれています。
お経の中には、人々が互いに慈しみの心を持ち、「和顔愛語、先意承問(せんいじょうもん)」をもって接しなさいと説かれています。「和顔」とは、和らいだ穏やかな顔、つまり優しい表情のこと。「愛語」とは、慈しみのこもった温かい言葉のこと。そして「先意承問」とは、相手の心に先回りして、その思いや痛みに寄り添い、聞き届けるということであります。
私自身、この「和顔愛語」という教えの持つ温かさと力強さを、深く実感した出来事があります。
私は現在、宗務所というところに通い、仕事をさせていただいております。宗務所というのは曹洞宗の行政機関であり、新潟県には4つの宗務所があります。中越地区を中心とした第1宗務所、佐渡が第2宗務所、上越地区が第3宗務所、そして下越地区を中心とした第4宗務所です。
私はその第4宗務所に所属しており、そこで庶務主事というお役をいただいております。事務所は、現在の所長であられる新潟市秋葉区観音寺様の一角を間借りして事務所として仕事をしております。令和4年12月より4年の任期で勤めさせていただき、今年(令和8年)の12月までがその任期となっております。
振り返りますと、この宗務所が始まった当初、所長さんが私たち所員に贈られた言葉が、まさにこの「和顔愛語」でした。
当時の所員は、所長さん以外の者は皆、初めて宗務所に勤める人たちばかりでした。私も含め、皆が右も左もわからない状態での始まりだったのです。不慣れな執務に戸惑い、うまくいかないこともたくさんありました。
しかし、そんな不安でいっぱいの私たちを、所長さんが引っ張って行ってくださり、徐々にそれぞれ自分の仕事に慣れていくことができました。何よりありがたかったのは、仕事で行き詰まり、困ったことがあっても、所長さんはいつも穏やかに、にこやかに話してくださり、相談に乗ってくださったことです。その「和顔」と「愛語」に、私たちはどれほど救われたか知れません。
所長さんがいつもその温かい姿を率先して示してくださったおかげで、所員たちも仲良く、いつも宗務所には笑いがたえない楽しい職場となっていきました。それは単に「ワイワイと気が楽なだけの場所」ではありませんでした。楽しいだけではなく、お互いに助け合い、支え合って、忙しい時も苦しい時も笑顔で乗り切ってきました。
仏道と聞くと、じっと座禅を組んだり、お経を読んだりすることだけをイメージしがちです。しかし、私たちが日々の仕事や生活の中で、誰かと顔を合わせ、言葉を交わし、苦楽を共にするその営みそのものが、まさに修行の場なのだと、私はこの宗務所での日々に教えていただきました。
和顔愛語とは、単なる「愛想よくしましょう」「人当たりの良い人になりましょう」という表面的な処世術ではありません。
「相手と自分は、本来切り離された別の存在ではない」という、仏教の深い真理に基づいた実践そのものです。私たちは普段、つい自分の都合や感情ばかりを優先してしまい、『今日は疲れているから無愛想でも仕方がない』『あの人の言い方が気にくわないから、きつい言葉を返してやろう』と、自分の思いのままに振る舞ってしまいがちです。
しかし、和顔愛語の実践とは、その「私」という小さなエゴをいったん脇に置き、目の前の相手を尊い存在として迎え入れることにほかなりません。
朝、家族に「おはよう」と声をかけるその声のトーン。
職場で、あるいは日々の暮らしの中で、誰かとすれ違ったときの柔らかな眼差し。
誰かが困っているとき、自分の忙しさを少し脇に置いて耳を傾ける姿勢。
それらはすべて、私たちが仏の慈悲の心をご自身の身の上に現成(げんじょう)させていく、尊い仏道そのものであります。
私たちが和やかな顔をし、温かい言葉を発するとき、実は一番の恩恵を受けているのは誰だと思いますか。
相手の心が和むのはもちろんですが、何よりもまず、温かい言葉を発した自分自身の心が、一番最初にホッと温まり、救われているのです。それは「相手のためによいことをしてあげた」という損得勘定ではありません。
仏教ではこれを「自利利他(じりりた)」と言います。自分の利益と他人の利益は別々にあるのではなく、他者を思いやり、トゲのない心で関わるその姿そのものが、私たちの狭い「我」の心を外し、本来の尊い仏の姿をそのまま輝かせていくのです。
相手の心に温かい灯火をともすことが、そのまま自分自身の命をも濁りのない、豊かなものにしていくのであります。
私が宗務所で経験させていただいたように、一人の穏やかな笑顔と温かい言葉があるところには、自然と信頼が生まれ、どんな苦しみや忙しさも分かち合える温もりが波紋のように広がっていきます。
明日から、いえ、この瞬間から。
家族に対して、ご近所の方に対して、職場や日々の出会いに対して、そして何よりも、日々忙しく頑張っているご自分自身に対して、そっと「和顔」と「愛語」の温もりを向けてまいりましょう。
上手にできなくても構いません。険しい顔になっている自分に気づいたら、ふっと柔らかい表情に戻す。その「気づき」の積み重ねこそが、私たちが歩む尊い仏道であります。
どうか皆さまの日々の暮らしが、和顔愛語の温もりに満ちたものでありますように祈念しております。


