※この法話は令和8年6月25日に行われた「加茂法話会」での原稿を加筆修正したものです。
先日、あるお寺の晋山式のお手伝いをさせていただきました。晋山式とは新しく住職がお寺に入り、そのお披露目をする式です。お寺にとっては数十年に一度、僧侶にとっては一生に一度というほどの盛大な法要です。私も令和三年に経験しましたのでよくわかるのですが、準備には多大な時間と労力が必要です。法要でそれぞれのお役を勤めてくださるお寺様方、さまざまな形でお手伝いくださるお檀家の皆さん——みんなが「無事に成功させよう」という気持ちで動いて、はじめて成就するものです。新住職さんが中心となる行事ではありますが、こうした大行事は一人では成し遂げられません。新住職さんも最後のご挨拶の中で、多くの方々への感謝を述べておられました。
こうした行事で多くの人の力が必要だということは、誰もが理解できることだと思います。しかし、私たちの日常においても、自分一人で生きていると言える瞬間は、じつはほとんどありません。常に誰かのおかげで「生かされている」のです。
ただ、そのことを日々意識するのはなかなか難しいことです。私たちは自分を支えてくださっている方々の存在に、ふだんなかなか気づけないからです。いまここで私がお話しできるのも、先輩和尚様が加茂法話会を始められ、そして続けてくださったからです。また、聴きに来てくださる皆さんがおられるからでもあります。この会場をお借りできるのも、加茂市の皆さんのおかげです。さらに考えを広げれば、この建物を建ててくださった方、管理してくださっている方など——こうして挙げていくと、顔も名前も知らない無数の方々のおかげで、いまの自分がここにいられることがわかってきます。こうした、あらゆるつながりの上に自分が成り立っている——これを「縁」と言います。
仏教にはこの「縁」を根本とした「縁起(えんぎ)」という教えがあります。お釈迦様は「此れあるがゆえに彼れあり、此れ生ずるがゆえに彼れ生ず」とおっしゃいました。「この世のあらゆるものは、たがいに関わり合い、支え合うことで成り立っている」ということです。何ひとつ、それだけで単独に存在するものはない。すべては「縁」によってつながり合っている、という考え方です。
この縁起の教えで大切なのは、つながりが一方通行ではないということです。支えてもらっているだけでなく、自分もまた誰かを支えているということです。皆さんがここに聴きに来てくださることで、私はお話しする場をいただいています。皆さんが加茂法話会に足を運んでくださることで、この会が続いていきます。つまり皆さんは、私や法話会を支えてくださっている存在でもあるのです。「生かされている」と同時に、自分も誰かを「生かしている」——これが縁起の教えです。
もう少し身近なところで考えてみましょう。たとえば、「おはようございます」と声をかければ、相手も「おはようございます」と返してくださる。あの何気ないやりとりも、縁起のあらわれです。自分が先に声をかけなければ、その挨拶は生まれなかった。自分の小さなひとつの行いが、相手の行いを生み出し、またそれが自分に返ってくる。私たちは日常のごく小さな場面でも、たえず縁を結びながら生きているのです。
さらに申しますと、縁起の教えは「いま、ここ」だけにとどまりません。私たちがいまここに生きているのは、ご先祖様から命をつないでいただいたからです。どこかで一つでもそのつながりが途切れていたら、いまの自分はここにいない。気の遠くなるような長い縁のつながりの上に、私たちは立っているのです。ご先祖様をご供養するのも、その縁への感謝のあらわれといえるでしょう。「縁起」とは、過去・現在・未来を貫く、大きな命のつながりなのです。
こうした縁の深さを感じたとき、自然とこみ上げてくる言葉があります。「ありがとうございます」という言葉です。
皆さんは「ありがとう」という言葉の語源をご存じでしょうか。「ありがとう」は、もともと「有り難し(ありがたし)」という言葉から来ています。「有る」ことが「難しい」——つまり「めったにないほど貴重なことだ」「奇跡のようなことだ」という意味です。
考えてみれば、こうして皆さんと同じ場所で、同じ時間を過ごしているということも、まさに「有り難い」ことです。人の一生の中で、同じ時代に生まれ、同じ地域に縁があり、こうして一堂に会するということは、どれほどの縁の重なりがあってのことでしょうか。茶道の言葉に「一期一会(いちごいちえ)」というものがあります。「この出会いは、生涯に一度だけのものだ」という意味です。縁起の教えとも深く通じています。いまこの瞬間の縁は、二度と同じかたちでは訪れない。だからこそ、目の前の縁を「有り難い」と感じ、大切にすることが肝要なのです。
では、「有り難い」縁を大切にするとは、具体的にどういうことでしょうか。私は、まず「ありがとうございます」と素直に言える心ではないかと思っています。
手助けをしていただいたとき、ねぎらいや励ましの言葉をかけていただいたとき——それは決して当たり前のことではなく、「有り難い」縁なのだということです。それなのに、「いやいや、たいしたことはありませんから」と謙遜してしまうことがあります。謙遜の気持ちはとても大切なのですが、素直に「ありがとうございます」と受け取ることもまた、相手への敬意のあらわれではないでしょうか。「ありがとう」と言われた相手は、自分の行いが誰かの役に立てたと感じ、うれしくなります。そして「ありがとう」と言った自分も、多くの縁に支えられているという実感が、じんわりと心に広がってきます。「ありがとう」というひと言は、縁をつなぎ、縁を深める言葉でもあるのです。
私自身、「ありがとうございます」と素直に言えるようになるまでには、時間がかかりました。以前はつい「いやいや」と言ってしまうことが多かったです。しかしあるときから、まず「ありがとうございます」と受け取るように心がけるようにしました。するとどうでしょう。自分の周りに感謝したいことがたくさんあることに、少しずつ気づけるようになってきたのです。「ありがとう」を口にする習慣が、縁への気づきを育ててくれるように感じています。
冒頭の晋山式のお話に戻りますが、新住職さんが最後のご挨拶の中で多くの方々への感謝を述べられていたのが、私にはとても印象的でした。あの「ありがとうございます」という言葉は、単なる形式的なご挨拶ではなく、晋山式を支えてくださった無数の縁への、心からの気づきのあらわれだったと思うのです。大行事を経験してはじめて、どれほど多くの方々の縁によって自分が支えられているかが、身に染みてわかるものだからです。私も自身の晋山式のときにそのことを深く感じました。
私たちは知らず知らずのうちに、誰かに支えられ、誰かを支えています。世の中のあらゆる存在と「縁」によってつながり合い、そのつながりの中で生かされているのです。どうかこれからも、日々の「有り難い」縁に気づきながら、「ありがとうございます」と素直に言える心を大切にしていただければと思います。


